鋸南・南房総の声

〈ひとこと提言〉

起業など交流の場に 保田・エアルポルト

 

 

 

 2019年から保田のファッションフナトを借りて「鋸南エアルポルト」を運営している政本洋輔です。パクチーハウスの創業者の佐谷恭さんと共同で立ち上げた、コワーキングスペースとアーティストインレジデンスの施設で「人と人とがつながる場所」です。 毎週ごとに「災害復興ボランティアの報告会」「課題図書の読書会」などの講演や飲み会を40回以上開催、町内外から人が集まっています。

 

 僕は縄文アーティストの活動を展開し、縄文の焼物を作ったり竪穴式住居を建築体験(写真)するイベントなどをやっています。長狭街道が「縄文ロード」と呼ばれるのを目標にしています。「竪穴式住居をうちの敷地でもぜひ作ってよ!」という話がたくさん来ているんですよ。

(政本洋輔) 

 


<海の声、里の声>

 

 台風15号から間もなく1年。鋸南町では屋根本修理が進んだり公費解体も始まっている様子を目にします。 一方で、復興ボランティアセンターには「ブルーシートが外れて雨漏りがするようになった、何とかしてもらえないか?」という相談がいまだにきています。 復興の進むお宅と、復興に進めないお宅とが混在しているのが町の現状だと思います。 ご相談には様ざまな問題が見え隠れしています。「火災保険にはいっていないため本修理ができない」、80歳代でお一人の方は「あと何年、生きるかわからないので多額の修理はしたくない」とおっしゃいます。

外見はそれほどの損傷でなくとも拝見するとカビが多い所もあります。 お宅の事情をよく聞いてからボランティアの方たちと一緒にサポートをしています。

 鋸南町では地元有志の「鋸南町復興アクセラレーション」が支援を続けています。私たち千葉南部災害支援センター(080-4186-6956臨時)は市町を越えて次の災害備えにも取り組んでいます。

(小出一博) 


キューバのコロナ通信

 

 3年前の退職を機に生まれ育ったこの町に帰ることにしました。50年近く都心に住み鋸南町を離れていたのですが、町内には同級生が多くいるし実家に兄夫婦がいるのでUターン。この半世紀、時代はガラリと変わり地方から都心へ人口の一極集中、自分もその一人でした。最近、意外なことに鋸南町へ移住者が増えているのはうれしい限りです。

 昨年9月は類を見ない台風大災害を体験、わずか半年後には新型コロナウイルス感染に見舞われています。この流行を徹底した検査と隔離政策で効果を上げている国があります。中米のキューバはイタリアをはじめ24か国へ医療団派遣をしています。

イギリス豪華客船で患者が多発、母国も米国も受け入れないのにキューバで治療。「誰ひとりの命も見捨てない」という姿に惹かれ、日本とキューバの友好活動に関わっています。 社会ではコロナ後、テレワーク(自宅で仕事)が増え拡大傾向、転居者を鋸南町に呼びたいですね。

 

松竹照代(大帷子在住) 


台風に負けない仕事おこし

 

鋸南と青島とー町おこしツアー参加の声

 

9月21日の朝、私は南房総市の道の駅で高速バスを降りた。今回の旅の目的は、ベテラン編集者であり鋸南町に移住して町おこしを行なっている塚田さんのもとを訪ねること。以前から地域の小冊子「野水仙つうしん」を発行する塚田さんの試行錯誤の知恵と経験をもらいたいというのがその狙いだ。

 道の駅「富楽里とみやま」のテラスで塚田さんを待ちつつ、つみれ汁を啜る。のどかな田園風景が広がり、その平和な情景からはニュースで話題の台風被害はほとんど感じない。そして、この当初の印象はその後、塚田さんの車で鋸南町勝山や保田を訪ねていくことで完全に覆されることとなる。

 小さな漁村・岩井袋では、半分ほどの家々の屋根にブルーシートがかかり、屋根の一部が破損していることが見て取れる。しかし、よく見るとブルーシートのない家の半分は空き家で、被害がないのではなく単に放置された状況なのだ。屋根がちょっと破損したかに見えても家の中では壁が浸水でぼろぼろであったり、入り込んだ泥水で無残な姿となった畳…と、その被害は外からの印象を遥かに超えていた。

 ニュースで「台風で広範囲に渡り停電」といった程度の認識しかしていなかった私にとって、東京での認識と実態とのあまりのギャップに衝撃を受けるのであった。

 しかし、私の本来の目的は台風被害の確認ではない。実は宮崎県の青島という日本を代表するサーフィンのメッカに、インターネットのプログラマーが、朝夕にサーフィンをしつつインターネットの遠隔通信を使って、東京の仕事をこなしていくという拠点づくりを展開する上で、塚田さんのチャレンジしている地域の情報媒体と、その運用を参考にするためだ。

 南国宮崎の暮らしやすさと広い海岸線に魅力的なサーフスポットが広がっているという恵まれた環境は、多くのサーファーを移住へと惹きつけるが、最大の問題は「やりがいがあって稼げる仕事をどう確保するのか」という課題だ。

 ところが、インターネットの普及と高度化は、この仕事の世界にも大きな変化を引き起こしている。「都心のオフィスに日々、出勤しなければならない」といった当たり前が、プログラマーを中心に崩壊し始めている。都心に通勤するというワークスタイルが崩れた時、どんな当たり前が広がっていくのか? 青島の拠点がどのように受け入れられるのか? 私の狙いはそこにある。

 詳細を語るには誌面が足りないが、鋸南町や保田海岸のエリアは、宮崎の青島とは少し違う形だが、仕事の世界で展開する変化の波を捉えるに十分なポテンシャルを持つと感じられた。

 海もあり山も近い、気候も温暖。そして、東京にほどほど近い。この組み合わせには、遠隔で仕事をする人の比率が、大きく増える時代のセミ移住の拠点として大きな価値を感じる。

宮木章太(東京都勤務)

 

(この原稿は鋸南町に転職、転居を呼び起こすために企画している転居・転職ツアーと展開する参加者に書いてもらったものです)

 


〈ひとこと提言〉

子どもの頃の風景と重ねて

 

 大学を卒業した後、横須賀市の米海軍艦船修理廠で働き、2010年に定年退職。私が子どもの頃、横須賀にも田んぼや畑がたくさん広がっていて田舎の町でした。定年後、趣味の陶芸をしながら庭造りをして暮らしたいと思うようになり、移住地を探すため、伊豆や房総半島の各地を探しても見つかりませんでした。鋸南町の嶺岡林道沿いを訪ねた時に、子どもの頃に見た懐しい景色に出会い移住してきました。ただ一つ残念なことは鋸南富山インター東側の山が採石によって削られ、岩肌が露出したままになっている風景です。鋸南町で子ども時代を過ごした大人たちも採石により消えてしまった山を眺めながら、昔を懐かしく感じていることと思います。移住してからは、夏草と闘いながら果樹、花木を植え、山羊小屋を作ったりしながら庭造りを楽しんでいます。趣味の陶芸も4月15日から道の駅きょなん案内所ギャラリーで個展を予定しています。
                          村松 恵一(下佐久間在住)


<海の声、里の声>

きょんむす-田舎暮らし女子応援団

 

 鋸南町を拠点に活動する小さなまちづくり団体。 ターンしてきた移住者で30代前後の「アラサー」世代の女性。 数少ない若い移住者として、何か出来ることはないかと18年4月に活動をスタート。食を通じた交流会や地元食材のPR活動等を行なっています。
 これまでの活動 として、移住者と地域住民との交流、地産地消イベントの開催や、町のブランド「地すべり米」のPR販売、各地で開催されるマルシェへの出店などを実施してきました。 きょんむすのイベントは毎回、鋸南町の美味しいお米を使った「おむすび」を主役に企画を立てています。                                大八木唯(元名在住)


<海の声、里の声>
空き家の活用を 
 
 昨年暮れに東京より移住して来ました。 鋸南町への移住のきっかけは、ネットでタイミング良く手頃なお家が見つかったことでした。   
 移住してみると、あちらこちらに空き家が見当たります。最近、農家のご近所さんから、「空き家を処分したいけれど」との相談もありました。
 個人のSNSで投稿したところ、反応も多 く直ぐに東京から見に来てくれました。 もっとネットを活用して、情報を公開していけば都心から興味を持ってくれる人も多いのでは。  
 日々の生活をSNSで発信しています。都会では経験できないことをたくさん楽しんでいます。

                                        石井ひろ子(移住歴5か月、大崩在住)


〈ひとこと提言〉
有害鳥獣について考える 山田永太郎(中佐久間在住)

 早いものでこの町に来て、もう5年目が経ちました。
東京都新宿区に生まれ農業高校に進学、その頃から農業を仕事にしたいと考え、より実践を学ぶべく八ヶ岳中央農業実践大学校に進学しました。
 鋸南町との出会いは高校生の頃、自転車で遊びに来たのがきっかけでした。
 海に山、人、全てに魅力を感じ、いつの日かこんなところに住めたらな…とその時は漠然と思っていました。
 農業大学校を卒業後、いくつかの農業研修を経て、独立就農を目指していた私は鋸南町のことが頭から離れず、鋸南町で就農したいという思いが日に日に強くなっていきました。
 何度も町を訪れ、住居や農地などの相談を役場と繰り返し就農の準備を進めていくなかで偶然よい物件が見つかり、移住を決断。晴れて鋸南町の住民となりました。
 現在、主力品目は露地葉物野菜ですが、昨年から水稲の栽培にも友人と共同で挑戦しています。
 鋸南町で営農するにあたって日々、感じるのは獣害との闘いです。主なものではイネはイノシシ、トウモロコシはサル、ハクビシン、タヌキの被害に遭いました。

 物理柵、電気柵による防御、ロケット花火、エアガンによる追い払いといろいろ対策は講じているのですが、これだけで完璧といった対策はありません。少しでも隙があれば簡単に突破されますし、一度いい思いをした動物たちは簡単には引き下がりません。
 対策は継続的に粘り強く少しでも動物が嫌な思いをしたり、人間に対して恐怖心を持つようにしていくことが重要だと考えます。
 ただ、どんなに自分の農地をきれいに管理していても隣に耕作放棄地や荒れ果てた山があれば住処になり、そこから作物を狙ってきます。
 荒れ果てた山にミカンの木があれば知らず知らずのうちに餌付けをし、栄養たっぷりのミカンは動物達の子育てを手助けしていることにもなります。
 さらに獣害は農業者だけの問題ではありません。車とぶつかれば大きな損害にもなりますし、近所ではイノシシによって水道管を掘り返されたという話もあります自分は農地を持っていないから大丈夫というのは少し違うのかもしれません。
 有害獣への対策は個々の力では戦えません。一人ひとりが協力し諦めず、できることから始めていくのが有効な対策への近道だと考えます。


〈近隣の情報〉
啄木夫人を守った話

 館山市にかつて起きた石川啄木夫人・節子の療養にまつわる足跡を追った。
 啄木は明治45(1912)年に結核で亡くなる。直後、房総の館山市北条海岸へ節子と娘・京子は療養に来る。節子もまた結核に侵されていた。
 節子親子は、啄木の妹・光子の紹介でコルバン夫妻というキリスト教宣教師に世話になる。実際に逗留していた家は片山かの(カノ)という、廃藩置県で静岡長尾藩が集団移転して来た元武士の家
 わたしはかつて出版の仕事でこの地を何度も訪ねていた。トヨタ自動車1号機製作に関わった世界的なギア博士、成瀬政男の伝記『心の灯台』を出版するためである。
 これを企画した中心人物は元白浜町長の和がい通夫だったが、「毎日、往復32㎞の道を徒歩通学して努力した成瀬博士を若者に伝えたい」と主張した。ところが、彼の道案内途中、「博士の祖母、片山かのが啄木夫人を守ったところ」と紹介してくれたのが、このツアーのきっかけである。片山かのは成瀬博士の祖母にあたる。
 啄木夫人・節子親子は療養と出産のため館山に来て、片山家の離れで生活した。ところが、療養を聞きつけた村の代表が伝染病だから村から出て行ってほしいと、片山かのに抗議する。
「コルバン夫妻が身寄りのない病人を助けているのに、わたしがこれくらいの世話をしないで外国の人に恥ずかしい」
 片山かのはキッパリと村人の抗議に体を張って親子を守った。
 わたしは成瀬博士の伝記を1年余かけて出版したが、この、片山かののことがどうしても忘れられなかった。そして、偶然にも館山市で片山かのに詳しい人に出会えた。平本紀久雄氏は、キリスト教を信仰しながら房総の歴史を掘り起こしている。地元では「イワシ博士」として知られている。
 何度も訪ねたがわからなかった片山かのの墓、節子親子が療養していた離れ、コルバン夫妻が建てた教会跡などを17年ぶりに発見できた。偉大だった片山かのの墓参ができて、海と空がさらに抜けるように青く見えた。
 節子は房州で房江と名付けた次女を無事に出産したのだが、啄木と同じ26歳の若さで大正2年、世を去っている。

片山かのの墓
片山かのの墓


〈文化は人を育てて〉
ある音楽会を聞いて


「鋸南町おこし」は文化の百花そうらんと連動している。廃校を再利用した鋸南町「道の駅保田小」での音楽会があった。
 これからも町の優れた文化、芸術を紹介したい。
 音楽(文化・芸術)は人間が生きていく上で必要だった。遠い場所に伝えるための発声、集団で獲物を追うための楽器製作、「ソーラン節」や「ヨイトマケの唄」は作業の呼吸を合わせるために唄われたのだった。
 6月20日、鋸南町・道の駅音楽室で「美地コンサート」が開かれた。こんな小さな田舎町での催しは、なかなか開催そのものに決断が必要だっただろう。
「権利」「手と手と手と」といった歌は、彼女が児童相談所や障がい者施設の保育士の経歴から選ばれたのか。また、ベトナムやカンボジアの子どもたちを励ます音楽会を現地で開いてきた体験は、「世界中のお母さんたちへ」「アメイジンググレイス」を歌っていた。
 一番、感動した「鮮やかな追憶」は歌謡曲らしいが、とても奥深い響きと中音の音質が朗朗と届いた。「ともしび」は黒柳徹子さんの実父、カザルスにも評価されたチェリスト・井上頼豊、ロシア合唱の白樺指揮者だった北川剛らが、シベリア抑留中に反戦歌として持ち帰った歌。
 わたしがかつて聞いた音楽で強く印象に残るものは、モスクワ軍管区赤軍合唱団(当時)と、えん罪・布川事件を支援しつづけた毎日音楽コンクール優勝者の佐藤光政である。その一角に彼女の歌が並んできた。
「月の砂漠」や「ふるさと」を参加者みんなで歌うサービス精神は、この歌い手が関鑑子創立のうたごえ運動に参画してきた体験であろう。「見上げてごらん夜の星を」をうたった時は毎週、原稿をもらいに行った故いずみたくの作曲裏話を思い出していた。
 音楽は実際に聞いてみないと音質や響きや声色がわからない。楽譜は音階を示しているが、「音と音の間に音楽がある」と教えてくれたNHK交響楽団指揮者・外山雄三の言ったとおり、彼女の歌にそのことが聞こえてきた。
 歌手とコンサートをとりくんだメンバーが、福島原発で鴨川市の施設に避難して来た折、これまでの経験を生かして子どもたちを支援していた経緯は、当日の音楽に深く反映し、少なくない聴衆の涙を誘っていた。
 文化・芸術が人類の生存になくてはならないものとして発生し、やがて娯楽や鑑賞と発展、今日に至った。「美地コンサート」が、わたしたちが進めている町おこしに十分、寄与してくれたことを喜び、確認できた催しだった。