旬の人

ガラス作家と料理を海の見える場所でやろうと決めた理由

 

 高校2年生の時の二者面談で「橋かビル、家、、、どんなものを設計したいんだ?」と聞かれ爆然と建築家になりたいと思っていた私は「家です。」と答えたものの、『何か違う、、、図面を描きたいんじゃない?作りたいんだ!大工!?うぅ?ん、なんか違う』と思い、進路を決めるに当たり、本当に自分が好きな事、やりたい事、将来のビジョンを考えた時「私は手作りする事が好きだ」小さい時からチクチク、トントン、いつも何か作っていたので作る事全般好きなんだと、料理も好きな事の一つだった。 だけど料理だけをやりたい訳じゃないなぁ吹きガラスもやってみたいなぁと悩んでいると「ガラスと料理両方やってガラスの魯山人になれば?」と母の一言で目から鱗! 『そっか!一つに絞らなくていいのか!』と、ここぞとばかりに苦手だった東京を離れ岡山県の美術工芸大学へ。田舎でガラス三昧の日々。卒業後は調理の仕事しながら休みの日にガラス製作、有給取って沖縄へダイビング。

 

 都内で働いている時は早朝から夜遅くまで、時には日の出前や深夜出勤し、朝日も夕日も見ない生活が当たり前だった。何の為に?人間らしい暮らしでは無いな。。。ふと大学生の時に読んだ本を思い出した「豊かさとは何か」「これは豊かな暮らしではないなぁ、東京を出たいなぁ」悶々と考えていた二十代後半、28歳の時に友でありライバルでもあった姉を亡くし一念発起、29歳で渡豪し寿司屋に就職、悪徳な社長に不信感を抱き、わずか半年で無念の帰国。 たまたま立ち寄った本屋の自給自足コーナーで「半農半Xの実践編」に出会い、二度目の目から鱗若くても田舎暮らししていいのか?! 田舎へ移住=中高年、リタイヤという固定観念が吹っ飛んだ。思い立ったら吉日?鋸南町の海の見える中古物件付きの土地に出会う。「土地は出会いだよ。 何もしがらみがないんだからここでやっちゃえば?!」とまた母に背中を押され30歳で移住。海の日オープンを目指し我武者羅に改装。 何も不安はなかった。 「やってみると案外なんでも出来てしまうものだ。」と思う。 やるかやらないかそれだけ。

(東 愛乃) 


金木郁男さん(横根在住)
 有害鳥獣、台風にも
 代代つづく農家、今はイノシシや鹿と戦う75歳の改革者。里山に囲まれた奥地、故に温暖な地でも寒さが日本水仙を見事咲かせます。
 かつての酪農、ミカン栽培から変わらず手がけているのが水仙。江戸時代に始まった花は房総の代名詞に。
 しかし、激増する有害鳥獣に悩まされながらも罠(箱ワナ、くくりワナ)や銃で格闘、平成半ばには電気でとどめを刺す方法を全国に普及。
 「大学教授に退治の講義を受けた時、私たちが使っていた電気ショック式に驚かれ先生が普及された」と金木さん。
 横根地区は早くからワナ組合を結成した経験から、今度の台風にも集団で屋根や倒木の処理を助け合ったと言います。(未)
 


富永洋雄さん(下佐久間、カーネーション農家)

 この地に生きているとは、富永夫婦のことをいうのかも知れません。300年以上も続く農家、江戸中期からです。先代までは乳牛が主だったのを、洋雄(ひろお)さん(77)が30歳を過ぎて花栽培、カーネーションに切りかわっていきます。
 実は洋雄さんのお父さん、先の敗戦でシベリア抑留され、帰国したのが6歳の時。突然、現われた見知らぬ男性にしばらく馴染めなかったといいます。
 生死を彷徨った戦地として知られるシベリア、ようよう帰国したら息子・洋雄さんはなつかない。「これも戦争の傷跡ですかね」と、苦笑する富永さん。
 かつて1本300円近くしたカーネーションが今は10分の1に、中国、ブラジルからも安い輸入品が出回ります。
 自由に仕事を選択できなく安房農高(当時)の畜産科を卒業、農業一筋、それを支えてきたのが登喜子さん。
 白浜、千倉も含めた安房農協共選部会の責任者として花栽培に生き、地域のためにイノシシや汚染土対策に奔走する2人です。(一)


金木幸一さん(勝山漁協)
 勝山漁港の前海に浮島があります。日本神話や源頼朝が再起をめざして上陸したとの歴史。
 金木幸一さん、70歳。代々の漁師です。屋号「半七」、祖父たちが突ん棒で獲ったカジキは築地で最高値をつけたと言います。いま、サザエや伊勢エビ漁を現役でつづけるベテラン。「下から3番目に若いんだ」と豪快に笑ってみせる金木さんですが、若い時から漁法の研究はピカ一。スズキのはえ縄漁を神奈川や兵庫まで学びに行ったらしい。
 定置網、養殖も盛んな勝山漁協の魚、磯ものは黒潮も入りこむ潮流と複雑な海底の恵みでしょうか。(未)